彩事季 – 「真面目ストレス」

年齢を重ねるごとに、なんだか真面目になってきている。ちっちゃな頃から悪ガキで15で不良と呼ばれたのは、遥か遠い昔のことである。

私は仕事柄、他人の目を気にする。なるべく目立たないようクールに行動するし、いたって真面目に生きているつもりである。もちろん真面目なこと自体はいいのだが、行き過ぎると人として面白みに欠けてしまう気もする。例えば友人同士でワイワイ酒を飲んだりする時、やはり一番盛り上がる話題は、他では言えない滅茶苦茶な話やヤラカシタ出来事だろう。全員が真面目な話をしたら仕事の会議みたいで面白くもないし、また集まろうとはならない。

そもそも「真面目」とは何だろうか? 誠実である・法律を守る・道徳的である・他人に迷惑をかけない・人を騙さない・勤勉である・破天荒な行動をしない・品行方正・健康に気を配る・家族や知人を思いやる……そんなイメージ。ん~、たしかに普通過ぎて面白みがない。
では逆に、「不真面目」とは何か? 上記の事柄を真逆にしてみる。不誠実・法律を守らない・道徳心がない・他人に迷惑をかける・嘘をつく・人を騙す・ルーズ・破天荒な行動をする・でたらめな言動をする・不健康・家族や知人に思いやりがない……こりゃ相当ひどい。こんな奴には誰も寄り付かないだろう。近付く人間がいるとすれば同類で、お互いに騙し合うのかもしれない。人は通常、何か悪いことをしてしまったら後悔や罪悪感に苛まれてストレスを感じる。しかし、平気で弱者を騙す詐欺など、根っからのワルも存在する。それこそ逃亡犯などは人生そのものがストレスにならないのだろうか? 自分なら耐え切れず、すぐ自首してしまう気がする。

かといって、誰しも常に「真面目」な「いい人」でいようとすれば、それはそれで疲れる。他人の目ばかり気にして「真面目」で「誠実」に見られたい、そのために社会のルールや秩序をきちんと守り、家庭内を温和に保ち、会社でも家庭でも仲間内でも「いい人」でいる……そんな人間を演じていたら「真面目ストレス」が発生するのは当然だ。いつの世も、真面目に頑張って生きている人々が社会の基盤を作っているとはいえ、誰しも聖人ではない。子供でも大人でも、たまには小さな嘘をつくこともあればコソコソすることもあり、ペロッと舌を出すくらいの悪いことは経験があるはず。それぐらいは人生をうまく進めるための術である。

そもそもこの世界は完璧ではなく、矛盾で溢れている。人類は常に「戦争反対」と叫びながら武器や兵器を作っているし、正義がどこにあるのかもよく分からない。インターネットがなかった頃は、テレビ・ラジオ・新聞の報道を多くの国民が信じていたから、国民を操ることさえ簡単だったろう。現代はネット社会で言論や発信が自由になったが、今度は情報過多となり、どれが真実なのかも分からなくなった。
また、いつの間にか作られたルールや規制にストレスを感じたり、自分なりの道徳・誠実・正義の概念と、社会における概念との間にギャップを感じることもあるだろう。例えば、近年メディアでよく扱われる事柄のひとつに「〇〇ハラスメント」がある。もちろん大前提としてハラスメントはあってはいけないし、人の尊厳を守るために大切なことだ。ただ、昨今はやや過剰に、何でもハラスメントに定義されてしまう傾向がある。何をやったら、何を言ったらNGなのか、研修を受けなければいけないようなご時世。とくに自分の世代には、つい「えっ! 今はこれもダメなの?」と驚いてしまうことも少なくない。

なぜこれほどルールや規制が増え、社会現象にまでなっているのか。そのひとつの要因は、ネット社会の中で、匿名で面白半分に他者を誹謗中傷できてしまう時代だからではないだろうか。それを目にしてしまうスマホは常にポケットに入っていて、一日に何度も確認せずにはいられない。
とくにZ世代以下は物心ついた時からそういう環境なのだから、心が臆病になって当然だろう。良い悪いは別として、生でぶつかり合っていた昭和の若者とは違う。ホッと安心できるのは、一人の時と家族や気の合う友人。自分のことを理解してくれる、傷付かないテリトリーの中だけ……だとしたら若者たちはどうやって心の強さを手に入れていくのだろうか? 社会に出れば嫌なこともたくさんあって、全部を真に受けていたら身が持たない。だからこそ、うまく回避するための柔軟さや強さを学ぶ機会があった。現代社会は、先回りして嫌なことを全部なくそうとしている気がしてしまう。たしかに嫌な思いをしないで済む方が楽だろうけれど。若者が社会に出ても、すぐに心が壊れてしまったら社会全体が成り立たない。転職サイトが増えているのは、そのせいもあるのだろう。いつか自分の納得できるやりがいのある仕事が見つかるのでは、と模索しながら次へ移っていく。でも、いつまで繰り返せば辿り着けるのか、彷徨い続けても正解はない。

本音や自分なりの思想を発信したらしたで、炎上したり、周りから敬遠されたりすることもある。とくに著名人は、一言が切り取られて拡散され、失言として命取りになったりする。私も立場上、あらゆるメディアでの発言や発信には気を遣っている。でも真面目すぎる話だと視聴者やリスナーは面白がらないので、ギリギリを狙いながら喋らなければならない。そのため生放送はかなり慎重になる。本音を言えば、「今の世の中、無口が一番」そう思っている。
本音を言えない外面のいい人間が増えていくと、きっちり型にはまった二進法のロボットみたいに、0と1/NOとYESだけの世の中になってしまう。社会という四角い箱に収まったパズルみたいで、隙間がない。本来、人間には隙間やズレのような“ゆるさ”があるからこそ、お互いに違いがありながらも繋がることができるはず。「まぁ、だいたいで」「そこそこでいいよ」なんていうゆるい言葉は、いつか死語になってしまうのだろうか。

これまでの社会で良しとされてきた「真面目」が、行き過ぎるとストレスとして心を蝕んでゆく時代。じゃあ、人に迷惑をかけない範囲で、個人的な堕落や羽目外しや無茶ならやってもいいのか? そう、誰でもプライベートは自由である! 一人の部屋なら、一人の行動なら、誰にも迷惑をかけないなら、法を犯さないなら、ある程度何をやっても良いと思う。自分の部屋で全裸でボトルの酒をラッパ飲みしながら踊っても、推しのコンサートで声枯れするまで叫んで豹変しても、休みの日に10軒のスイーツ店を巡って完食した後に大盛りラーメンを食べても、誰も咎めないし誰の迷惑にもならない。誰しも、最低でも2割くらいは人に言えない・外に出せない部分があるはずだ。〇〇好きや〇〇癖もあるだろう。でも実は、その2割こそが“自分らしさ”だったりもする。いくら変な自分がいても、他人にバレなきゃ関係ない。
人は年齢を重ねるほど起伏のない日々へ向かいがちだが、少しは不真面目なことや刺激もないと人生が味気なくなってしまう。表の自分と裏の自分がいるのは普通のこと。いや!普通どころか大切にすべきことかもしれない。うまい具合に表と裏、外面と内面のバランスをとっていこう。もちろん、一般社会における「真面目」の概念と、自分なりの「真面目」の概念が違ってもいいし、さらに人それぞれの概念があっていい。ちなみに私自身が思う「真面目」とは、結局は人としての誠実さ。その中に慈悲や利他という気持ちがあることが大切で、人を思いやる心があれば「いい人」で「真面目」と言われるだろう。

世の中がキツキツになるなら、個人はユルユルでいい。がんじがらめの世界では、むしろ個人の自由な世界こそが大事だ。
お互い、ルールだらけの世知辛い世の中にストレスを感じることはありつつも、真面目に!たま~に不真面目に!楽しく!生きてゆきましょう!