彩事季-「私の音楽遍歴 SEASON 1」

自分の記憶力がポンコツになっていく前に、なぜ自分がこんなボーカリストになったのか、その時代時代に聴いていた曲の記憶を辿ってみようと思い立った。それらの曲が自分に影響を与え、今の自分の歌ができているはずだからだ。便利な世の中になったもので、音楽配信のサブスクなどで多くの古い曲を聴くことができる。それを聴きながら、自分の音楽人生を振り返ってみよう。ただ、曲ごとに懐かしくて横道に逸れてしまうので、あれこれ聴いてしまい、なかなか書き終わらないのだが……。ふと思い出した曲名と歌手・アーティスト名(敬称略)を書き出してみる。あなたもサブスクなどで曲を聴きながら読むと、さらに楽しんでもらえるはず。それでは一緒にタイムマシーンに乗って、私の音楽遍歴の旅へ出かけましょう!

最初の音楽の記憶……不思議と今でも自分の中から消えない、古いのに歌える歌というのがある。それは、父親たちが宴会で歌っていた歌。座敷で、酔った父や親戚のオヤジ達や仕事仲間が、みんなで手拍子をしながら歌っていたものだ。三橋美智也「炭坑節」「ソーラン節」、菅原都々子「月がとっても青いから」、一節太郎「浪曲子守唄」、千昌夫「星影のワルツ」など。民謡や浪曲などが大衆の歌として流行っていた。「月がとっても青いから」は、いまだに満月を見ると口ずさむ自分がいる。

藤井家は、常に音楽が流れているようなモダンで文化的な家庭環境ではなかった。物心が付いた頃には家に小さなポータブルプレーヤーはあったが、レコードはなかったように思う。ちょうどテレビが普及したばかりで、日本人はみんなテレビに夢中な時代。だから自分と音楽との最初の接点は、間違いなくテレビだったはずだ。
最初に口ずさんだのは、子供番組のテーマソングだったと思う。初めて買ってもらったレコードの記憶は「キャプテンウルトラ」。調べてみると、1967年オンエア。私が5歳の時だったらしい。ウルトラシリーズの「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」の狭間で放送されている。さすがは子供時代の記憶。すべてのテレビ番組のオープニング曲の歌い出しを、驚くほど覚えている。週に一度の放送でしか聴くことができないのに、この歳になってもワンコーラスは歌える。「ウルトラマン」「キャプテンウルトラ」「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」のオープニングテーマはもちろん、他にも大好きだったのは「仮面の忍者 赤影」のオープニング、こんな感じである。
記憶にある最古のテレビアニメは、「少年忍者風のフジ丸」はじめ、「8マン(エイトマン)」「宇宙少年ソラン」「狼少年ケン」「スーパージェッター」あたり。これらも2~3歳の頃だったと思うが、どれもワンフレーズは今も口ずさめる。アニメはどれもまだモノクロだった。いや、ひょっとしたらカラーだったが、我が家のテレビがモノクロだったのかもしれない。当時、子供番組の多くが未来世界を描いたSFものだった。この年代の日本のアニメは、今や現代アートに見える。この頃、アメリカ以外でこれほどオリジナルのアニメを作っていた国は珍しいかもしれない。これら60年代のアニメが、現在の日本アニメの原点になっている。

1970年代になると、歌謡曲に出会う。かといって歌番組を観ていたわけではないだろう。子供には退屈だ。おそらくザ・ドリフターズの人気番組「8時だョ!全員集合」のゲストが歌っているのを観ていたのだと思う。ムード歌謡の全盛期で、男女の夜の恋を描いた大人の歌がほとんどだった。いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」、伊東ゆかり「小指の想い出」など、意味もわからずに口ずさんでいた。
また、アイドルも登場し始める。天地真理「水色の恋」「恋する夏の日」。初めて好きになったアイドルだったと思う。さらに南沙織「17才」、アグネス・チャン「ひなげしの花」、麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」など。その後、「スター誕生!」という人気番組からデビューした森昌子・桜田淳子・山口百恵の3人が“花の中三トリオ”と呼ばれ、日本のアイドル時代がやってくる。
私が好きだったのは、山口百恵ちゃん。「としごろ」「青い果実」「ひと夏の経験」。小学5年か6年の時に百恵ちゃんのコンサートに行ったのが、生まれて初めて行ったコンサート。白い衣装にスポットライトを浴びた百恵ちゃんは、光がオーラのように反射し、天使のようだった。月日が流れ、まさか百恵ちゃんのトリビュートアルバムで「ロックンロール・ウィドウ」を歌わせてもらうことになろうとは。あの頃の自分に教えてあげたい。男性アイドルは、郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎の3人が“新御三家”と呼ばれていた。私が好きだったのは秀樹で、初めてベルボトムのジーンズを買ってもらい、「薔薇の鎖」のスタンドマイクパフォーマンスを教室の棒雑巾でよく真似したものだ。

幼心に「自分も歌手になりたい」と初めて思ったのは、フィンガー5が登場した時だった。「個人授業」や「恋のダイヤル6700」がヒットしたのが1973年、私は小学5年生で11歳。フィンガー5の曲は、これまでのアイドルの歌謡曲とは何かが違った。今思えば和製ジャクソン5というコンセプトだったからなのだが、当時はそんなことは知る由もない。自分と同じ年頃の沖縄の兄弟5人が、ビートの効いた明るい曲を踊りながら歌う姿を見て、自分もフィンガー5になりたいと思った。沖縄出身のSPEEDに憧れた小学生と同じだ。初めてアイドル誌の「平凡」や「明星」を買って、ファッションを真似するようになった。リードボーカルの晃は自分より1歳上で、子供なのにサングラスをかけて歌っていた。そのサングラスが欲しくて欲しくてたまらず、通信販売で似たものを購入。多分おもちゃだったのだろう。送られてきた封筒を開け、プチプチに包まれたサングラスを取り出した。しかし、サングラスは真ん中で折れていた。子供心にショックだったことを今も覚えている。

小学5〜6年くらいになると、ラジカセを買ってもらい、おもちゃやゲームといった遊びが音楽に変わった。思春期の始まりである。当時のラジカセは、ステレオではなく小さなモノラルのワンスピーカータイプ。レコードは高価でまだ買えないので、FMラジオから流れるヒット曲をカセットテープに録音しては何度も聴いた。
流行っていたのは、フォークやニューミュージック。フォークでは、かぐや姫「神田川」「22才の別れ」「妹」。ちなみに中学生の時にギターで弾けるようになった最初のフォークナンバーは、この「妹」だった。井上陽水「東へ西へ」「夢の中へ」「心もよう」。ある日、なぜか父が陽水さんの「断絶」というアルバムを買ってきた。なぜそれをいきなり買ってきたのか、未だに謎のままである。吉田拓郎「結婚しようよ」「落陽」。私がスーパーアイドルだった頃、拓郎さんと初めてホームパーティーでお会いする機会があった。すると「郁弥君、うちの奥さんが君のファンなんだよ。ちょっとおいで!」と、突然拓郎さんの家に連れて帰られたことがある。ちなみに奥様は女優の森下愛子さんである。
ニューミュージックでは、チューリップ「心の旅」「銀の指輪」「ぼくがつくった愛のうた〜いとしのEmily〜」「サボテンの花」、オフコース「眠れぬ夜」、荒井由実「ひこうき雲」「ルージュの伝言」「翳りゆく部屋」。中学を卒業した春休みにFMラジオから「卒業写真」が流れてきて、思わず涙ぐんだ記憶がある。中3の時にはデートで、大学の学園祭に出演していた竹内まりやさんのライブを観に行ったこともあったなぁ~。確か「SEPTEMBER」がヒットしている時だった。

人生で初めてR&Rに出会ったのは、1974年ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」だったかと思う。ボーカルは宇崎竜童さん。見るからに“不良”な兄ちゃんたちが楽器を弾きながら白いツナギ姿で、面白い歌詞の曲を歌っていた。当時それをR&Rとは知らなかったが、これは明らかに何かが違う音楽だと感じた。ミーハーな郁弥くんは、どこからか白いツナギを買ってきて、真似るように胸のポケット部分にマジックで「郁」と漢字で書いた。

中学生になると、先輩の影響で聴く音楽もファッションも何もかもが変わった。この頃には家に家具のように大きなステレオがあり、部屋で音楽を聴くようになっていた。
中学生になったばかりのある日の夕方、私の人生を揺るがす大事件が起きる。13歳の郁弥少年は、テレビでキャロルの解散ライブの番組を観たのである。これが私の音楽人生の大きなターニングポイントとなった。言わずもがな、キャロルは矢沢永吉さんがいた伝説のバンド。初めて自分で買ったLPレコードはキャロルのラストライブの2枚組で、すでにステレオで何度も何度も聴いていた。でもキャロルはテレビにほぼ出ないし、それまでレコードジャケットの写真でしか見たことがなかった。映像で動いているキャロルを観るのは、この番組が初めてだったのだ。当時は家庭で録画できるビデオもないので、放送を見逃すと二度と観ることができない。テレビの前に座って、番組が始まるのを待ち構えていた。
「GOOD-BYE キャロル」と題した番組のオープニングは、「二人だけ」というバラード曲に乗せて、“CAROL”の文字が炎で燃えている場面から始まった。後に、当時の現場スタッフだった知人に聞いた話によると、機材のショートが原因で発泡スチロールの舞台セットに引火した事故だったらしい。とにかく、バラードに炎という演出は、物凄いインパクトだった。小雨の降る日比谷野外音楽堂で、黒い革ジャンにリーゼントでR&Rを演奏するキャロル。映像が切り替わると、国会議事堂の前の道を、キャロルのメンバーを乗せた白いアメ車のオープンカーが走っている。それを囲むように、クールスという親衛隊が大型バイク数台で護衛している。そのメンバーの中には、岩城滉一さんや舘ひろしさんがいた。キャロルとクールスのインタビューが、これがまた痺れるほどカッコいい。再び野音の演奏に戻ると、次は客同士の喧嘩が始まり、それをステージから止める永ちゃん……瞬きを忘れるほど釘付けになったまま、約1時間の番組は終了した。
今思うと、青少年にはかなり過激な映像だったと思う。同じ番組を見た同級生の父親は、放送後に「なんて番組を流すんだ!」とテレビ局にクレームの電話を入れたらしい。13歳の郁弥少年は完全にR&Rに心を侵され、放心状態になった。そして心に強く思った。「俺もバンドをやる」と。

早速、全貯金をはたいて5万円のエレキギターを買う。最初に練習した曲は「憎いあの娘」。そして中学1年の時に、同級生とキャロルと同じ4人編成のPOPEYE(ポパイ)というバンドを組む。練習で初めて歌ったのは「ルイジアンナ」だった。それが藤井郁弥のボーカルの始まりである。まだカラオケなどなく、一般人が人前で歌うことなどほぼない時代。自分は歌が上手いとは思っていなかったが、バンドで歌ってみて「俺、意外といけるかも」と思ったのを覚えている。

中学の頃からキャロルやクールスなどの日本のR&Rバンドばかり聴くようになり、彼らが歌っていた英語のカバー曲に触れ、徐々にアメリカの50年代のR&Rばかりを聴くようになる。チャック・ベリー 「Johnny B. Goode」、デル・シャノン 「Runaway(悲しき街角)」、エルヴィス・プレスリー「Hound Dog」。中でも、世の中の女の子がR&Rにキャーキャーと黄色い歓声を上げるようになったのは、やはりエルヴィスからではないだろうか。初めて買ったビートルズのアルバムは「With the Beatles」だった。当時はリアルタイムでハードロックが流行っていたし、日本にもいろんなロックバンドはいたが、自分はそうした音楽をほとんど聴いていない。

高校生になって軽音楽部に入り、先輩たちとCAL・COKE(カルコーク)という7人のバンドを組む。クールスと同じ7人編成で、ボーカルが3人。先輩がリードボーカルをやるので、自分はサイドボーカルになった。カルコークでは、クールスとシャ・ナ・ナのカバーをしていた。「シャ・ナ・ナ ライヴ・イン・ジャパン」というアルバムの曲は、ほとんどカバーした。
カルコークは一度、クールスのコンサートの前座をやったことがある。その時に初めてクールスのメンバーに会えて天にも昇るような気持ちだったが、これも月日が流れると、クールスの40周年トリビュートアルバムに参加し、若き日に死ぬほど聴いた「シンデレラ」を歌う未来に繋がっていた。
当時、映画「アメリカン・グラフィティ」や「グリース」など、世界的に’50sが流行し、若者の大きなカルチャーとなっていた。親の時代に流行ったものが、必ずその子供の世代でまた流行る。カルチャーは繰り返し、また新たなものを作り出す。第二次’50sブームの中、久留米では’50sダンスパーティーが大流行しており、その会場でよく歌った。ティーンエイジャーの頃に聴いた音楽は’50sばかりだったので、今でも50年代のアメリカのヒット曲はほとんど口ずさめる。また、当時は’50sのオムニバスアルバムがいくつも発売され、ひとつのバンドや一人のボーカリストに固執することがなかったせいか、これという影響を受けたボーカリストがいない。強いて言えばエルヴィス・プレスリーだろうか。今でもたまに、カラオケに行く機会があると「Can’t Help Falling in Love(好きにならずにいられない)」を歌ったりする。

17歳でチェッカーズを結成し、初めてリードボーカルになる。チェッカーズは、’50sのドゥワップのコピーバンドだった。特に影響を受けたのは、映画「アメリカン・グラフィティ」のサントラ盤。ビル・ヘイリー&ザ・ヒズコメッツ「Rock Around The Clock」、ダニー&ザ・ジュニアーズ「At The Hop」は、私の青春時代の代表曲である。チェッカーズは、マニアックな曲ばかりをカバーしていた。ディオン&ザ・ベルモンツ「I Wonder Why」、ザ・コースターズ「Charlie Brown」、ファイブ・サテンズ「To the Aisle」など。

80年前後、19歳くらいの頃になると、イギリスでニューウェイブ、パンク、ロカビリーやスカが流行し始める。ストレイ・キャッツ「Runaway Boys」、セックス・ピストルズ「Anarchy in the U.K.」、ザ・スペシャルズ「A Message To You Rudy」「Monkey Man」、ヒューマン・リーグ「Don’t You Want Me」、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド「Relax」。
その頃になると、だんだんと’50sに飽きを感じ始めていた。チェッカーズは相変わらず’50sだったが、プライベートのファッションや音楽は、ロンドンのニューウェイブ寄りになっていた。デビューした時のコンセプトは80年代の’50sだったから、音楽は50年代風、ファッションは80年代でチェックのニューウェイブ。私が思うに「涙のリクエスト」はポール・アンカの「Diana」、「星屑のステージ」は同じくポール・アンカの「You Are My Destiny」、そんなイメージではないだろうか。上京してからの自分の音楽ソフトには、もう’50sの曲は存在していなかった。当時住んでいた寮の隣のヤマハ本社内にレコード資料室があり、そこでよくレコードを借りて聴いていた。たしか、イギリスのバンドの曲ばかりを聴いていたと思う。カルチャー・クラブ「Karma Chameleon」、UB40「Red Red Wine」、スタイル・カウンシル「Shout To The Top」、ポリス「Every Breath You Take」、ユーリズミックス「Sweet Dreams」、デキシード・ミッドナイト・ランナーズ「Come On Eileen」。ものすごく聴いていたというわけではないが、今でもこれらの曲を耳にすると当時を思い出す。
80年代のアメリカのバンドは、ファッションがあまり好みではないという理由でほとんど聴かなかった。でもブロンディとラモーンズは好きだったなぁ。ブラックミュージックは相変わらず好きだった。
19歳くらいの頃から、東京でカフェバーが流行した。貴重なブラックミュージックの映像ばかりを流しているカフェバーがあった。今思うとなぜあんな映像を持っていたのだろうと思うが、そこで初めてジェームス・ブラウンの映像を目にする。エド・サリヴァン・ショーの映像だった。びっくりというか、「なんだこれ?!」マジぶっ飛んだ。あの頃は、バカのひとつ覚えのようにジンライムばかり飲んでいたのを思い出す。

チェッカーズが1983年にデビューして、スーパーアイドルとなった1985年くらいだろうか、福岡の先輩バンドTHE MODSと知り合う。最初は怖かったが、話してみると、とても優しい先輩たちだった。まだ我々がブレイク前、THE MODSが歌番組「ザ・トップテン」に初出演して「激しい雨が」を歌ったのを、寮のテレビにみんなで釘付けになって観たことを覚えている。チェッカーズはTHE MODSの影響を受けまくり、その後オリジナル曲「NANA」の誕生へと繋がっていく。
その頃になると、メンバーのファッションも聴く音楽もほぼUKだった。チェッカーズのアルバムで言えば「GO」あたりである。メンバーがよく聴いていたのはザ・クラッシュ「London Calling」「I Fought the Law」「Tommy Gun」。パンクバンドだが、ちゃんとメロディーがあって、バンドのサウンドやアレンジ、パフォーマンスやファッションもめちゃくちゃカッコ良くて全員がツボにハマった。ユウジなんかは、完全にベースのポール・シムノンになりきっていた。
この頃、もう一人影響を受けたのがエルヴィス・コステロだ。音楽的センスとしてはいちばん好きだったかもしれない。声も歌い方も大好きだった。ロックだけどポップでメロディック、そしてビジュアルは80年代のバディー・ホリー。バックバンドがジ・アトラクションズの頃が最高だ。エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズ「Oliver’s Army」「Pump It Up」。
当時の自分は、THE MODSのボーカルの森山さんの影響で、ロックな歌い方も取り入れてはいたと思う。ただし私の根底は’50sなので、ロックでもメロディーがしっかりある歌が好きだ。例えばボブ・ディランとかセックス・ピストルズのような、メロディーを崩したような歌い方は得意ではないし、もし私がTHE BLUE HEARTSの曲を歌っても、つまらない歌になってしまう。基本的になんでも歌えるが、やはり得手不得手はあるものだ。

80年代はMTVや音楽番組「ベストヒットUSA」も流行し、ミュージシャンのプロモーションビデオ(PV)が流れるようになる。そしてダンス時代到来、マイケル・ジャクソンが世界を席巻する。ロス郊外のパサディナで行われたモータウン・レコーズのイベントでの「Billie Jean」のパフォーマンスを見た時は、あまりにも感動した。多くの世界的スターが現れた時代。マドンナが「Like A Virgin」のヒットで初めて日本に来て「夜のヒットスタジオ」で歌った時には、チェッカーズも出演していた。
プリンスは、ステージパフォーマンスに大きな影響を受けたアーティストだ。「Let’s Go Crazy」「Purple Rain」「Kiss」など。実は、最初プリンスのPVを見た時はファッションもあまり好みではなく、とくに「Kiss」のPVは「なんか気持ち悪いなぁ」とまで思っていた。ところがコンサートを観に行ったとたん、完全に大ファンになった。
もう一人、PVからパフォーマンスとファッションの影響を受けたアーティストが、テレンス・トレント・ダービー「Wishing Well」「Dance Little Sister」 。この頃からダンスパフォーマンスに目覚める。とにかく歌よりもダンスというぐらい、踊るボーカリストになった。ダンスに目覚めたことで、週末は必ずクラブへ遊びに行くようになる。DJの友人も増え、家で聴く音楽もクラブダンス系のブラックミュージックばかり。ハウスと呼ばれるダンスミュージックばかりを聴いていた。これまでディスコと言われていた箱が、クラブと呼ばれるようになる。あの頃のクラブは新しい文化だった。ニューヨークも東京もナイトクラブ全盛期。海外へ遊びに行けば、朝までオールでナイトクラブ巡りをした。日本は高度成長期の末期で、世界一位の経済国になる。それは後からバブル時代と呼ばれるわけだが……。当時クラブでよく踊ったのは、ロリータ・ハラウェイ「Love Sensation」、チャカ・カーン「I’m Every Woman」の2曲だ。
イギリスでは、アシッドジャズと言われるジャンルが出てくる。ブラン・ニュー・ヘヴィーズ「Never Stop」、インコグニート「Givin’ It Up」「Don’t You Worry ‘Bout A Thing」など。ニューヨークでも、ニュージャックスウィングと呼ばれる音楽のスタイルが登場。ボビー・ブラウン「Every Little Step」。

そして80年代にはヒップホップがメジャーになり始め、ブラックミュージックはその後どんどんヒップホップ化してゆく。ヒップホップとロックが融合した名作、Run-D.M.C.(ラン・ディーエムシー)「Walk This Way」。ファンクとヒップホップの融合、M.C.ハマー「U Can’t Touch This」。自分は、ラップにはあまり魅力を感じなかった。やはりメロディーがある方が好きだからだろう。チェッカーズの後期のコンサートが、クラブ系なサウンドになった時もあった。
また、この頃ヴォーギングというダンスがニューヨークのクラブで流行する。アメリカの黒人とラテン系同性愛者のダンスシーンとクラブで踊られてきたダンススタイルで、雑誌「ヴォーグ」のモデルのポージングに似ていたことからそう呼ばれている。MFSB「Love Is The Message」という曲のベースラインを使ったマルコム・マクラーレン「Deep In Vogue」のPVを観て、この目で実際に見たくて急遽ニューヨークのクラブまで行ったこともある。パフォーマンスにヴォーギングの影響を受けたものとして、1990年にマドンナは「Vogue」を、チェッカーズは「運命(SADAME)」を発売している。

1992年、バブル時代の崩壊とともにチェッカーズは解散する。最後の曲は「Present for you」だった。原点のR&Bに戻って終わろう、と話して作った曲だったと思う。でも自分の中では、解散が決まって、その想いを込めた曲は「Blue Moon Stone」だと思っている。

SEASON 2へ続く———