
*SEASON 1はこちら
1993年、「TRUE LOVE」でソロデビュー。この頃、私の音楽環境は急激に変化した。聴く音楽がまるっきり変わり、簡単に言うと“夜の音楽”から“昼の音楽”になった。おそらく、子供が生まれて生活環境が変化したことが大きな理由だったように思う。
ブラックミュージックやダンスミュージックをほとんど聴かなくなり、急に、青空が似合うアメリカのウェスト・コースト・ロックやサザン・ロックと呼ばれる70年代のロックバンドの曲ばかりを聴くようになる。イーグルス「One Of These Nights」「Hotel California」、ドゥービー・ブラザーズ「Listen To The Music」「Long Train Runnin」、ブレッド「Mother Freedom」、レーナード・スキナード「Sweet Home Alabama」。バラードならイーグルスの「Desperado」「Take It to the Limit」、ブレッド「If」「Make It With You(二人の架け橋)」、クレイジー・ホース「I Don’t Want Talk About It」。中でも、とくによく聴いたのはイーグルスとブレッド。あまり聴いてこなかったジャンルだからこそ、すべてが新鮮だった。
こうした音楽は、「TRUE LOVE」にも影響している。ドラマ主題歌を作るにあたり、アメリカのフォーク&カントリー&ロックな雰囲気にしたいと考えた。ディレクターの倉中氏が、アレンジを佐橋佳幸氏に依頼したのも大正解だった。なんせ、チェッカーズと同年にデビューした佐橋くんのバンド名はUGUISS(ウグイス)。イーグルスの影響で鳥のバンド名にしたというほど。当時はそんなことは知る由もなかったが。
なお、80年代に流行していたAOR(Adult Oriented Rock)というジャンルがある。ロックの中でも、なんだかオシャレでムードがありすぎるがゆえに聴かずにいたのだが、アメリカンロックを聴き始めたのと同時期にAORにもハマった。当時いつも車で聴いていたのが、2枚組コンピレーションアルバム「Melodies The Best of Ballads」。名バラードが多く、昼も夜も、部屋でもドライブ中でも、あらゆるシチュエーションで心地よく聴ける。ぜひ検索するなどして聴いてみてほしい。
もうひとつ、この頃に音楽を聴く上で自分の価値観が大きく変わったのが、ミュージシャンのビジュアルと音楽を切り離したことだ。それまでは個人的に、80年代アメリカのロックバンドのビジュアルが好みではなかった。ほとんどが長髪のパーマヘアで、正直ファッション性を感じられなかったのだ。だが、音楽は見た目ではない、曲が良ければいいんだ! 素直にそう思えるようになり、ミュージシャンのビジュアルやファッションを重視しなくなった。なんだ、そんなことかと思うかもしれないが、自分の音楽人生においてはかなり大きな変化と言える。さらに21世紀になると、ファッションにおいてはあらゆるスタイルがミックスされていき、過去に嫌いだったファッションすら格好よく見えるようになったくらいだから不思議なものだ。
1994年にリリースしたソロのファーストアルバム「エンジェル」は、アメリカンロックな感じの音楽をやりたいと思って作った。そして2枚目のアルバム「R&R」のコンセプトは、「ハートブレイク」や「タイムマシーン」に代表される、いわばテクノ’50s。
当時はこうしたロックな曲を作っていたが、何をどう作っても、“藤井フミヤ”の位置付けはずっと“ポップス”だった。そうか、やはり元アイドルだったアーティストは、ロックというジャンルには入れてもらえないのか……自分はどうあがいてもロックシンガーにはなれないのだな、と思った。そこで、開き直ったように自分はポップシンガーだと認めてみると、むしろ、ありとあらゆるジャンルを歌えるようになった。ロック、ジャズ、レゲエ、ダンス、ワルツ他、なんでもありの世界。なぜなら、さまざまな要素を柔軟に取り入れつつ大衆に響く曲にする、それこそがポップスというジャンルだからだ。
そもそも、日本の音楽業界のジャンル分けは明確ではない。演歌、歌謡曲、ポップス、ロック、R&B、HIP HOP、ダンス系……アイドルのダンスグループでもラップは取り入れるし、ダンス系の曲はR&Bと言われがち。中でもポップスとロックの境目は曖昧だ。活躍中のアーティストを何組か思い浮かべても、それをロックだと言う人もいれば、ポップスだと言う人もいるはずだ。
私が思うに、ロックというのは音楽ジャンルに限らず、アーティストの生き様そのものなのではないだろうか。1本筋の通った、己を曲げない不器用な生き様、それを表現した音楽がロック。そう考えると、私はひとつのジャンルを極めるよりも、ボーカリストとしてあれもこれもやってみたいと、好奇心が強くて欲張りだったのだと思う。だからこそロックシンガーにはなれなかったし、ならなかった。若い頃にあれこれ試行錯誤した結果、今では堂々と胸を張って「私はポップシンガーです」と完全に言い切れるようになった。
そこから2000年代くらいまでは、どんな曲を聴いていたのかあまり細かく覚えていない。ただ、ひたすらいろいろなCDを聴いていた時期であり、なんなら最も多く買っていた時期かもしれない。その理由として、2001年にiPodが登場したこともあるだろう。音楽ライブラリを充実させたくて、iPodにCDの曲を取り込む行為自体が楽しかったのを覚えている。それは仕事としてのネタやモチーフ探しでもあり、知らない曲を知りたいという願望から来るものでもあった。
あまり新しい洋楽を聴かなくなったので、以降は、いわゆるハマったジャンルやミュージシャンというのがない。最後にちょいハマったのは、ブルーノ・マーズくらいかな。ベースの有賀啓雄氏とディレクターの倉中氏を誘ってコンサートを観に行った。今後のレコーディングやコンサートのための勉強会でもあった。まだドームやアリーナのような広い会場ではなかった。当時の私は、リアルタイムの音楽よりも、プログレッシブロックやグラムロックなど、60~80年代のロックを発掘して聴いていたような気がする。若いブルーノ・マーズの音楽にはそれらの要素が含まれており、新鮮に感じたのだった。
ちなみに70年代のハードロックについては、ディープ・パープルやレッド・ツェッペリンなどは聴いたが、80年代あたりのヘヴィメタルにはまったく興味がなかった。自分はロックの中でも、キャッチーでポップさのある曲が好きだったからだ。例えばT・レックスの「20th Century Boy」や、ディープ・パープルの「Smoke On The Water」など。
時代ごとに聴いていた曲の紹介は、ここまでとなる。こうして振り返りつつ並べてみると、自分はマニアックなものではなくヒット曲が好きなのだと思う。どのジャンルにしても、曲がヒットするには必ず理由があり、どこかキャッチーで覚えやすく、人々に好まれる要素を持っている。そして大ヒット曲は、アーティストの宿命となる。ライブ活動を続ける限り、代表曲として歌い続けることになるのだ。
好きなアーティストの代表曲をこれまで何回聴いたか、何回生で聴いたか。一般的に、それが多ければ多いほどコアなファンだと言えるだろう。私の代表曲はやはり「TRUE LOVE」であり、基本的に歌わないステージはほぼない。その1曲を聴きたくて初めて来てくれる人もいるからだ。あなたはこれまでに、どれくらい「TRUE LOVE」を聴いてくれただろうか?
ここからは、自分自身の活動を中心とした「音楽遍歴」を記していこうと思う。
ソロになり、毎年のようにシングルとアルバムを出していくうちに、次はどんな音楽を作ればいいのか徐々に見えなくなってきた。そこで振り切って「ダンスものをやってみよう!」と企画したアルバムが「CLUB F」。クラブのような打ち込みのリズムとダンスナンバーをステージで披露したところ、思いがけず観客のノリに面白い変化が生まれた。この「CLUB F」以降、ファンが両手を上げて飛び跳ねたり踊ったりするのが恒例の光景となったのだ。迷いからの挑戦が、新しい流れに繋がった。
2004年、イギリスのバンド、シンプリー・レッドのドラマーだった屋敷豪太氏が、バンドを脱退してロンドンから帰国することになった。豪ちゃんは、長い付き合いの友人。シンプリー・レッド加入後、初日となるライブをアイルランドのダブリンまで観に行ったこともある。後に「あの時は来てくれて凄く心強かった」と感謝された。
それまでの屋敷豪太氏の略歴は、国内ではミュート・ビート、日本初のクラブミュージックレーベルであるメジャーフォース、イギリスではSoul II Soul、そしてシンプリー・レッド。Soul II Soulのプログラマーとしてレコーディングに参加したところ、これが大ヒットしたことにより、ドラマー&プログラマー“GOTA YASHIKI”は世界的に大ブレイクしたのだ。
そんな売れっ子ミュージシャンがロンドンから日本に帰ってきた大きな理由のひとつが、実は和食恋しさだった。当時は狂牛病と海域汚染が問題になっており、毎日豆ばかり食べていたらしい。一時帰国した際は、美味しい和食屋に何軒も連れて行き、豪ちゃんはそのたびに「やっぱり日本は食事が美味しいねぇ、いいなぁ~」と口にしていた。
「日本に帰ってくるなら、一緒に何か作ろう!」ということで、当時まだロンドンにいた豪ちゃんとネットで音源データのやりとりをしながら最初に完成したアルバムが「EQUAL」。そこから「POP★STAR」まで2年ほど、豪ちゃんのプロデュースでベッタリ一緒に音楽活動をすることができた。その2年の間に豪ちゃんは日本のミュージシャンたちと親交を深め、佐橋佳幸氏、有賀啓雄氏、斎藤有太氏とのバンド・RAWGUNSの結成や、アルバム「WITH THE RAWGUNS」に繋がる。
RAWGUNSのメンバーは、昔から知り合いの一流ミュージシャンばかり。音楽にすべてを注いでいる彼らの姿を見ていると、その生き方がうらやましかった。これが、自分のあり方について今一度考えさせられる機会となった。
自分は音楽以外にも、アート、演技、音楽以外でのプロデュース、レギュラー番組出演など、多くのことをしてきた。もちろんそれは貴重な経験だし、器用と言えば聞こえがいいのだが、いろいろやり過ぎて音楽面の向上や探求を疎かにしてしまったと感じた。なぜ俺はもっと早くミュージシャンになろうとしなかったのだろう、と後悔したほどだ。とはいえ後の祭り。考えた結果、音楽以外の活動をいったん全部やめて、自分の人生を音楽1本に絞ることに決めた。
もともと自分のことを、いわゆるミュージシャンとは定義していなかった。というのも、作曲はできるが、1からアレンジして楽曲として仕上げる技術や能力はないからだ。例えば、奥田民生くんや斉藤和義くんのような人こそがミュージシャンだと思う。私はあくまでボーカリストと作詞作曲、プロデュース。でも、それはそれでよかったのだろう。もし私が楽器や楽曲制作までできるミュージシャンだったとしたら、当然すべての楽曲の作詞・作曲・アレンジを自分で手掛けていただろう。そして、自分自身がその枠内でやれることに飽きてしまっていたに違いない。いろいろやってみたいタイプの私は、結局のところ職人的なミュージシャン気質ではなかったのだ。
ただ、ボーカリストとして、もっと歌を極めたいという思いは強い。それは技術を高めたいということではない。味が欲しい。魅力が欲しい。自分なりに“よい歌”とはどういうものかを考えるきっかけが、これまで何度かあった。
40代の頃、とある歌の上手いアーティストのコンサートを観た。そのアーティストの曲は2曲くらいしか知らなかったのだが、歌が上手いから楽しめるだろうと思って足を運んだ。ところが、知らない曲の歌詞がなかなか聞き取れず、退屈してしまった。もちろん知っている曲だけは歌詞がちゃんと入ってくる。それは歌い方と音響によるものだったが、観客として歌詞が明確に聞き取れないのはよくないな、と強く認識した体験だった。逆に、知らない曲でも歌詞さえ伝われば感動に繋がる。自分も、あるイベントで小野リサさんが竹内まりやさんの「いのちの歌」を歌うのを聴く機会があった。実はその曲を知らなかったのだが、歌詞があまりに優しく心に響いて泣きそうになった。もちろんアーティストによって表現方法は異なるが、私にとって歌詞は大切な要素。観客にしっかりと歌詞を届けるため、滑舌よく歌うことを心掛けている。
50歳くらいの時、初めてフルオーケストラの演奏で歌わせてもらった。その時には声量の重要性を感じた。声量がないと、歌が演奏に負けてしまうのだ。通常、現代の歌はオペラや声楽と異なりマイク使用が前提なので、それほど声量を必要としない。自分はもともと声量はある方だが、さすがにオペラ歌手ほどではない。そこでオーケストラとの共演にあたり、ほぼ我流ながらボイトレをいろいろと試した。また、囁くような歌い出しの曲もあるが、声量のあるシンガーの囁きと声量のないシンガーの囁きはまったく違う。例えば玉置浩二さんのような囁き方は、声量のあるタイプと言える。
フルオーケストラで歌う機会を重ねていく中で、ある時、コンサートマスターを務めるバイオリニストの女性に言われた言葉がある。「フミヤさんの声は、まるでストラディバリウスですね」。あの何億円もする高価なバイオリン? いやいや滅相もない、その言葉はいくらなんでも褒め過ぎでしょう! でも、プロのオーケストラ奏者にそう言われて嬉しくないわけがない。もしかして俺って、それなりにいい声をしているのか? ストラディバリウスねぇ……。もしそうならば、この声を楽器だと思ってソリストのように歌おうじゃないか。歌というのは、言葉をメロディーにできる“楽器”なのだ。たくさんの楽器を背に、そう考えて歌うようになった。
聴く人の心に寄り添うように歌う。変な癖も入れず、あまり感情を込め過ぎることはしない。歌がどう聴こえるかは、聴く人のその時の状況や心の状態によって変わる。悲しい歌を泣いてるように歌うのは、押し付けがましくなりかねない。ただ素直に丁寧に、透き通るような声で綺麗に……。
ただし、私はポップシンガーである。必ずしも綺麗な声で歌い上げる曲ばかりではない。ダンスやロックとなれば、叫ぶわ、がなるわで、正確な音程や声質を細かく気にしてはいられない。ノリとパフォーマンスで、観客と一緒に歌って踊って盛り上がることの方が重要。そうした振り幅も含め、私はボーカリストであり、パフォーマーなのだ。
ポップシンガーとして多彩な曲を持っているからこそ、ギター1本からフルオーケストラまで、いろいろなタイプのコンサートができるようになった。しかもパンクロックからワルツまで、曲調やTPOに合わせて歌い方も変えられる器用さがある。そして、私が歌うと、どんな曲も“藤井フミヤの曲”になる。ということは、私のやっている音楽ジャンルは“藤井フミヤ”なのだ。そうなってくると、外部に影響を受けるようなアーティストはいなくなる。それもあって、歳を重ねるごとに新しい音楽自体を聴かなくなってしまったというのもあると思う。とくに配信やサブスクの時代になり「いつでもどこでも、どんな音楽でも聴ける」と思った頃から、特定のアーティストや曲をリピートすることがなくなった。一方で最近は、音楽アプリで知らない曲を聞き流すことが多い。
活躍中の若いアーティストたちを見ていると、いよいよ日本の音楽が本格的に世界に向かいつつあるのを感じる。我々とそれ以前の世代の日本人アーティストは、日本人のためだけに国内で日本語で歌う時代だった。海外に挑戦する人もいなくはなかったが、今ほど作品が広がりやすい環境ではなかった。今や、作品が世界に届けられる時代となり、とくに日本のアニメ主題歌は世界的なものになった。外国人が日本語で歌う現象も起きているし、英語で歌う日本のアーティストも増えている。相変わらずバンドも多いし、ダンスが上手い子も多い。日本人に限らず、アジア人が欧米でモテる時代にもなってきたらしい。
かといって、俺が今20代だったらなぁ~なんてことは一切思わない。我々には我々の時代があり、歌番組から国民的スターが生まれる時代でもあった。そして、「我々の時代」は今なお続いている。あの頃と現在の音楽を聴きたいと思う人たちがいてくれるから、自分はそこへ向けて歌ってゆくだけだ。
今の若いボーカリストたちは、総じて歌唱力が高い。キーも高く、器用に歌える人が多いのは、幼い頃からカラオケが当たり前に存在し、いろいろな歌を歌ってきた環境も大きいのだろう。私の青春時代にはカラオケでワイワイ歌う文化はなかったから、友達の歌声も知らないし、歌が上手いかどうかは自分で判断するぐらいだった。普段からカラオケでONE OK ROCKやMrs. GREEN APPLEなどの曲を歌っていたら、そりゃ上手いボーカリストが増えるはずだ。いいことである。
もちろん、必ずしも技術の高い人=売れる人ではない。カラオケを歌って正確な音程とリズムで点数を競うテレビ番組もあるが、100点満点の歌にはあまり魅力や面白味を感じられないことが多い。実際に人気のあるボーカリストたちを見ていると、やはり持って生まれた声質と歌の個性、そして運も必要なのだ。そう考えると、幸いなことに自分の歌はこれらの要素を満たしていたのかもしれない。
これから努力すべきは、なるべく長くこの声を維持することだ。欲を言えば、もう1音ほど高いキーが出ればいいかなぁ、というくらい。歳を重ねるごとに徐々に身体も変化し、より一層パフォーマンスよりも歌重視になってゆくだろう。もちろん動けるうちは踊るけれどね! とにかく、この声で長く歌うための努力は惜しまない。
普段から健康管理には人一倍気を使っている。風邪をひいて声が枯れた場合、楽器担当ならステージに立てるかもしれないが、ボーカルは歌うことができないし代わりもいない。だからといって、正しく真面目一本だけの生き方をしていたら、歌に艶や色気、深みは出ないだろう。やはり適度なやんちゃさや音楽以外の遊び、人生経験こそが人間味を感じさせ、魅力ある歌に繋がるのだと思う。あらゆる面で陰陽のバランスは大切だ。
今のところ、さらなる技術向上や極端な変化は求めていないので、そういう意味では、60代にしてようやく“藤井フミヤのボーカル”は仕上がったと言えるのかもしれない。とはいえ、これだけ歌っていても未だに自分の声帯を100%コントロールできているわけではないし、掴みきれない部分もある。結局のところ、ステージで歌い続ける限りは常に日進月歩なのだ。
仕事柄、これまでに一般的な人の1000倍くらいの曲数を聴いてきたのではないかと思う。少年時代の音楽との出会いから始まった長い「音楽遍歴」も、ここらで打ち止めとしよう。
私は、いつまでも「藤井フミヤの歌を聴きに行きたい」と思ってもらえるような音楽を届けるべく、これからも努力するのみ。それが皆さんの「音楽遍歴」を彩れるなら、何よりである。
