
フミヤ自身による簡単で美味しいレシピをご紹介する、お料理コーナー 「F’s RECIPE」。
今回は、食にまつわるエッセイスタイルでお届けします。
「おふくろの味」
私は料理が作れる。自分でもわりと得意な方だと思えるのは、包丁さばきが上手いこと、味付けが上手いこと。大きく言えばこの二点ではないだろうか。盛り付けは今ひとつな気がするけれど。
料理が好きなので、レストランで美味しいものを食べた時は、これはどうやって作っているのだろうか? 素材や味付けはなんだろうか? どうにか同じようなものを家でも作れないだろうか?と常に思う。
初めてちゃんとした料理を作った記憶は、小学生の頃。それはハヤシライスだった。しかもバターで小麦粉を焦がしながら、デミグラスソースのようなものから作ったのだから本格的である。たしか従姉妹の姉ちゃんから教わったのだが、我ながらいい出来だった記憶がある。
私の料理好きは、母親が料理好きだった影響が大きい。母はとにかく食い道楽で、お酒も大好き。実家の家庭料理は美味かったし、凝っていた。一般的には一家に1台のはずの冷蔵庫も2台あり、いち早く電子レンジも購入していた。魚屋が、わざわざうちまで車で売りに来ていた。
外食は年に数回しかなかった。今では実家付近にも数えられないほどの飲食店があるが、自分が小学生の頃は近所にほぼなく、うどん屋とラーメン屋くらい。高級なお店にも行かないし、美味しいお店も少なかったように思う。たまに車で遠出する外食も、きっと母は自分の料理の方が美味しいと思っていたのだろう。
家が美容院だったので、店に「家庭画報」や「婦人画報」など客用の女性誌が常にあり、そこに必ず料理のレシピが掲載されていた。母はそのレシピを片っ端から試していたのではないかと思う。
私の幼少期に、本に掲載されているようなプロのレシピによる和洋中の料理がテーブルに並ぶ家は、そうそうなかったと思う。うちで晩飯を食べた友達の母親が、「うちの息子が藤井さんとこで食べたハンバーグが余程美味しかったらしくて、作ってくれと言うとやけど、どうやって作っとると?」みたいな話は何度もあった。我が家のハンバーグは草鞋みたいに大きくて、しかもレストランのように熱々の鉄板皿で出された。ポテトや人参も添えられ、ご飯も茶碗ではなく、お皿に盛りつけたライスだった。
最後に母の手料理を食べたのはいつのことだろう? お座敷で数人でワイワイ食べたような記憶はあるが、定かではない。誰しも、最後に食べた母の手料理というものは、実はあまり記憶にないのではないだろうか。なぜなら、「私の料理は今日が最後よ!」そんなことを確定する日はないからだ。
あらゆる料理が食卓に並ぶ実家ではあったが、“おふくろの味”と言われて思い出すのは漬物と卵焼きかな。どちらもほぼ毎朝、食卓に出ていたからだと思う。漬物は、毎年大きな樽で高菜や青菜が漬けられていた。卵焼きはやや甘めで、ネギ油でふっくらと焼かれていた。
おふくろの味はほぼ消えてしまったが、唯一継承されている味がある。それは正月の雑煮だ。これだけは母が作った味と今でも同じ。私ではなく、かみさんが受け継いだ。子供たちも雑煮はその味しか知らないので、息子も「この味だけは習っといて」とお嫁さんに頼んでいた。雑煮の味は、次世代に受け継がれる家が多いのだろう。
母が亡くなってから随分経つ。母が料理を作らなくなってからは、さらにもっと経つ。もうおふくろの味はこの世のどこにもない……と涙で文章を締めくくりたいところだが、実は我が家にはおふくろの味が今でも残されている、というか保管されているのだ。
それは、柚子胡椒と梅干し。遥か昔に母親が作って東京に送ってくれた瓶詰めである。柚子胡椒は冷凍保存、梅干しは常温保存。一応おふくろの手作りの味である。これがもう最後だなぁと大切に食べていたが、今ではもったいないというか、なんとなく形見のようで手が出せない。食べ物の形見は、物の形見より、なんとも言えぬリアル感がある。この先、食べることがあるのだろうか? これを子供たちに託しても仕方がないので、いつかは食べる時が来るのだろう。はたして今でもちゃんと食べられるのか。既製品ならとうに賞味期限は過ぎている。まぁ明太子のような生ものでもないし、どちらも植物の塩漬けなので大丈夫だとは思うが……。
舌で味わう母の形見。もし食べた時には、どんな場面の母の笑顔が浮かぶのだろうか?
