彩事季-「選択肢と選択」

どっちにしよう。
あっちかな? いや、こっちだな。
いや……やっぱり……

人生は、選択肢と選択の連続だ。

始まりである誕生は、愛と偶然の賜物。生まれる時代や国、親を意識的に選んだ記憶はない。気が付けば、いつの間にか「自分」がここにいた。物心が付くと自我に目覚め、「選択」が始まる。死ぬまで続く分かれ道。無数の選択肢からひとつを選ぶ……その繰り返しが、唯一無二の自我を創り上げてゆく。

選択肢は多い方がありがたい。あなたは今日、いくつの選択をしただろうか? 日本は資本主義の先進国なので、選択肢が多い。例えばスーパーマーケットでチョコレートを選ぶ場合、何種類ある? 今日の晩ご飯を何にするかも、いくつかの候補から選ぶことになる。

好きなものを選べることを「自由」というなら、自由ではない選択とはなんだろう? それは、自分以外の誰かと選択結果を共有しなければならない場合だ。
2人で「どっちにする?」「こっちがいい」「あ……そう」。3人以上で、多数決やじゃんけんになることもある。意に反した結果になった場合、「そっちでもいいか」という許容、「それは嫌だ」という反対、「……分かりました」という不本意な諦めが生じる。中でもショックや断念や喪失感を伴うものは、心残りや悲しみ、悔しさとして尾を引くこともあるだろう。ストレスや揉め事の大半は、選択が自分の意に反した時に生まれるのかもしれない。

また、選択が思い通りにならない時は、なんらかの要素が絡んでいる。
個人においては、肉体的・時間的・金銭的な制約がほとんどだろう。それにより物事を諦めるのは、致し方のないことだ。
他人を含むケースなら、まずは家族・親族。そして知人・友人、さらに会社や学校。たいていこの3つの範囲で起こり得る。どれも生きてゆく上で重要な要素であり、その三角形の中心に自分が存在している。
例えば子供がいる家族の場合、つい子供を最優先にしがちだ。「パパ、今日はお寿司が食べたいなぁ」「焼肉がいい!」。会社のプロジェクトでは、自分はAの方がいいと思うのに、上司の命令でBに決定することもある。「これまでしてきた私の苦労を返せ……」。
物事は、そうそう意のままには運ばない。バランスを保ってこその平穏な日常。そのためには少々の諦めや寛容さも必要になる。すべてを自分だけで選べたら楽だが、誰もが好き放題に自己主張していては社会が成り立たない。今の私は、かなり好きなことを自由にやって生きている。それでも人生の三角形を保つために、「まあいいか」「しょうがない」と思うこともあれば、「これは無理してでも頑張らねば」ということもある。

とはいえ、自分の人生は自分のもの。一度きりの命という時間をどう使おうが、何を選ぼうが、本来は自由だ。なるべく選択の決定権が自分にあるように生きていきたい。

そのためには、一人のプライベートな時間が大切。例えば休日、好きな飲み物と食べ物を好きなだけ買ってきて、だらだらとスマホを眺め、好きな映画を観て、好きな時間に寝る。これぞ完全に100%フリ~ダム! FFメンバーなら、FUTATABIツアーを観ることや遠征することも、自身の自由な選択のひとつだろう。あなたの大切な自由時間を、ありがとう!

若い頃、道は何本にも分かれていた。どこへでも行ってみようと思っていたし、経験してみないと分からないし、歩いてみて行き止まりなら戻ってくればいい。失敗を恐れず、やり直せばいい年齢だった。すでに世間一般では定年退職の年齢になったが、私は歌い続けている。

これからの選択で、自分はどう変わってゆくのだろうか。年齢的に、だいぶ人格形成は終わりつつあると思うが……ここから、もっと寛大になるのか? もっと頑固になるのか? 願わくば、仏のように寛大な心と強い意志を持つおじいさんになりたい。
その時点では、もう選択肢は少なくていい。多くの物は必要ないし、悩む時間なんて短い方がいいのだから。というより、経験と試行錯誤の結果、自分に合った物事がすぐ分かるようになっているはずだ。あれならこれ! それならあれ!「もっといろいろありますよ」「いや、これでいい」と即答。そんな未来像のために、徐々に選択肢を狭めていくこともまた選択だ。時間をかけて望む環境を整えていこう。

今後についての最も重要な選択は、すでに選び終えている。それは「シンガー」という、迷うことのない一本道だ。
私の歩くこの道は、ありがたいことに孤独ではない。しかも、向かう先にはたくさんの笑顔が見える。青空の下、歌いながら笑顔へ向かってのんびり歩き、歳を重ねるにつれてますます自由に、身も心もふわっと軽く生きてゆく。やがて背中に翼が生えて、「じゃあ、行ってきまーす!」と飛び立つ。それが最後の選択なのだろう。